方谷駅・高梁・備中松山城
2003年2月2日 うぅ、体が重い。
昨夜、RACDAという街づくりの市民団体のセミナーに参加してきた。ネットでサイトをチェックしていたら、日程がたまたま重なったので、見に行ったのだ。
興味深い内容だったのだが、飲み会にまでついていってしまった。酒のせいか、朝起きてもこの体たらくだ。
今日は、以前より行きたかった高梁に行くことにする。できれば、方谷駅周辺も見てみたい。
中学生の時、司馬遼太郎の『峠』を読んだ。主人公の河井継之助が、もっとも師として尊敬した人物といわれているのが、備中松山藩の山田方谷という人物だった。
方谷は、藩内の開墾の傍ら、家塾を開き、教えていたという。その家塾の跡が、JR伯備線の方谷駅である。
『峠』における方谷駅についての記述が、興味をそそられたので、一度行ってみたいと思っていた。
朝の弱い我が身を何とか動かし、チェックアウトをして、岡山駅へ。
伯備線の新見行き普通電車に乗る。
当初は、高梁を観光して時間があったら、方谷に行こうかと思ったのだが、高梁までは比較的ある普通電車の本数が高梁以北ではかなり減少するので身動きが取れない。
今乗っている新見行きでそのまま方谷に行くことにする。
伯備線の車窓は面白い。
高梁川沿いを北に向かう。北に向かうにつれ、トンネルが増え、山並みが川や線路に迫ってくる。
山並み迫る集落や川の眺めに、金田一耕助シリーズのミステリーを思い出す。『八ツ墓村』とか。
映画の撮影場所にもなったところが、高梁市から北西に向かった山の中にあるらしいのだけれど、時間の関係で諦める(泣)。
方谷駅到着。降りるのは私を入れて、3人ほどだった。
期待通り、余計なモノは何もない。
歴史を知らなければ、川沿いの狭いところに張り付いている集落だとしか思われないだろう。集落名は長瀬というようだ。
駅前から広がる集落はシンとしている。
人家は駅を中心にちゃんと存在するのに、自分以外の者が存在しないかのようだ。
JR線と川を挟んで反対側の道路を走る自動車の音が、たまに澄んで聞こえてくる。
逆方向の電車が来るまで少し時間があるので、踏切を渡って、山をちょっと登ってみる。
適当なところで川の反対側を見ると、いつ切り拓いたものか、石垣を何段かこしらえた上にある田を見かける。方谷先生たちの時からあったのかな。
そうでなくとも、当時を偲ぶ光景を目にできて、ちょっと達成感にも似た嬉しいものがある。
駅に戻る。改めて見ると、ローカル駅らしい佇まいで、かえって好感がもてる雰囲気だ。最近はローカル駅の駅舎はなくなるか、今風に改装されてしまうから、貴重ですらある。
国鉄線に駅をつくる際、山田方谷を偲ぶ地元の人々が「方谷」の名称を強く求めたという。人名を国鉄線の駅名にしないという決まりがあったようなのだが、方谷の弟子の三島中洲が東宮侍講も務めたということで、当時の鉄道省にも方谷という人が認識され許されたらしい。
ただし鉄道省は
「『方谷』は地名である」
との公的見解だったという。確かに、川の両岸などの集落の周りに山が迫り、「方谷」という表現は合っているのだけれど。
方谷駅から高梁に戻る。
レンタサイクルを借りようと思う。
こういう場合、車で移動するのでは、街や土地の雰囲気を十分に味わえないような気がするからだ。
ちなみに、徒歩や自転車の次に良いのは、バスである。
高梁の街はこじんまりとしている中に、古い建物や堀がたまにあって、昔の名残がいい感じで残っている。変に新しい建物が目立っていないのが、良い感じに思われる。
軽く街並みを味わったので、備中松山城に行こうとしたら・・・。
小雪がちらついている。
道理で寒いわけだ。
さて、どうしたものか。
迷っている内に、雪がやんだ。
よし、行こう。
しばらく自転車を走らせると、案内表示が出ている。
「備中松山城まで約5キロ」
う〜ん、どうしますかね〜?
自転車の速度は平均して一時簡に10〜15キロくらいだろうから、30分あれば着くかな?
ま、何とかなるでしょ。
たまに見える案内表示に従って、松山城に向かう。
なんか、山に向かっているような気がするなー。
途中に、山田方谷先生家塾跡との石碑が。
その傍らにバス停もある。名前は「登山口」。
登山口?
どこの山だよ、それ。
自転車で行く道は、だんだん傾斜がきつくなる。
三島中洲公園あたりで、とうとう自転車を押して登ることに。
「観光地なのに、なんでこんなに不便なところにあるんだよ!?」
などと理不尽な不平を感じたところで手遅れだ。
二月初めという、観光の閑散期でもあるのだから、なおのこと不平を言っても仕方ない。
ここまで来てしまっては、もうこのまま登ってしまおう。
息を切らしながら登る私をたまに、自動車が抜いて登っていく。
備中松山城最寄りの駐車場までたどり着く。
ここからは、自動車の来訪客も歩いて登らなければならない。
足が重い。傾斜のためか、疲労のためか。
やっと着いたと思ったら、そこは大手門で、天守閣まではさらに階段を登らなければならない。
「こんな城、使えねーよ」
などと悪態をつきたくなる。
天守閣の前の広場状のところで、一休み。
高梁市街を一望できる高台になっていて、気持ちよい。苦労したので格別の味わいだ(笑)。
天守閣自体は、こじんまりとしているけれど、上品で良い味わいだ。
きれいなのは、大修築を終えたばかりであったためでもあったようだ。修築終了記念で、入場料が無料だ。ラッキー!
浮いた分にプラスして、絵はがき購入。
備中松山城は、臥牛山の地形を利用した天然の山城である。
鎌倉時代中期に造成がはじまった城域を大松山と呼び、鎌倉時代が終わる頃から小松山に城域が広がる。近世の小松山に造られたのが現存する松山城である。今いるのは、小松山の方になる。
この際だから、大松山まで行こう。
しかし、山道には雪が残り、足場が悪い。
そうこうしていると、疲労のために足が笑い出した。ガクガク震え出すのだ。
自力で帰れる内に、帰ろう。
吊り橋まで行って、帰って来る。
自転車を置いてある駐車場まで、降りる。
途中に、木の立て札を見つける。
「本日の登城大儀であった 城主」
本当に、大儀だったよ。
自転車で一気に降りる。
気持ちいいですな〜。
高梁からの帰りがけに、吉備津神社に寄ろうと思って、JR吉備線に乗り換えるが、力尽きて居眠りしてしまった。
そのまま断念し、関東への帰途につく。
昨夜、RACDAという街づくりの市民団体のセミナーに参加してきた。ネットでサイトをチェックしていたら、日程がたまたま重なったので、見に行ったのだ。
興味深い内容だったのだが、飲み会にまでついていってしまった。酒のせいか、朝起きてもこの体たらくだ。
今日は、以前より行きたかった高梁に行くことにする。できれば、方谷駅周辺も見てみたい。
中学生の時、司馬遼太郎の『峠』を読んだ。主人公の河井継之助が、もっとも師として尊敬した人物といわれているのが、備中松山藩の山田方谷という人物だった。
方谷は、藩内の開墾の傍ら、家塾を開き、教えていたという。その家塾の跡が、JR伯備線の方谷駅である。
『峠』における方谷駅についての記述が、興味をそそられたので、一度行ってみたいと思っていた。
朝の弱い我が身を何とか動かし、チェックアウトをして、岡山駅へ。
伯備線の新見行き普通電車に乗る。
当初は、高梁を観光して時間があったら、方谷に行こうかと思ったのだが、高梁までは比較的ある普通電車の本数が高梁以北ではかなり減少するので身動きが取れない。
今乗っている新見行きでそのまま方谷に行くことにする。
伯備線の車窓は面白い。
高梁川沿いを北に向かう。北に向かうにつれ、トンネルが増え、山並みが川や線路に迫ってくる。
山並み迫る集落や川の眺めに、金田一耕助シリーズのミステリーを思い出す。『八ツ墓村』とか。
映画の撮影場所にもなったところが、高梁市から北西に向かった山の中にあるらしいのだけれど、時間の関係で諦める(泣)。
方谷駅到着。降りるのは私を入れて、3人ほどだった。
期待通り、余計なモノは何もない。
歴史を知らなければ、川沿いの狭いところに張り付いている集落だとしか思われないだろう。集落名は長瀬というようだ。
駅前から広がる集落はシンとしている。
人家は駅を中心にちゃんと存在するのに、自分以外の者が存在しないかのようだ。
JR線と川を挟んで反対側の道路を走る自動車の音が、たまに澄んで聞こえてくる。
逆方向の電車が来るまで少し時間があるので、踏切を渡って、山をちょっと登ってみる。
適当なところで川の反対側を見ると、いつ切り拓いたものか、石垣を何段かこしらえた上にある田を見かける。方谷先生たちの時からあったのかな。
そうでなくとも、当時を偲ぶ光景を目にできて、ちょっと達成感にも似た嬉しいものがある。
駅に戻る。改めて見ると、ローカル駅らしい佇まいで、かえって好感がもてる雰囲気だ。最近はローカル駅の駅舎はなくなるか、今風に改装されてしまうから、貴重ですらある。
国鉄線に駅をつくる際、山田方谷を偲ぶ地元の人々が「方谷」の名称を強く求めたという。人名を国鉄線の駅名にしないという決まりがあったようなのだが、方谷の弟子の三島中洲が東宮侍講も務めたということで、当時の鉄道省にも方谷という人が認識され許されたらしい。
ただし鉄道省は
「『方谷』は地名である」
との公的見解だったという。確かに、川の両岸などの集落の周りに山が迫り、「方谷」という表現は合っているのだけれど。
方谷駅から高梁に戻る。
レンタサイクルを借りようと思う。
こういう場合、車で移動するのでは、街や土地の雰囲気を十分に味わえないような気がするからだ。
ちなみに、徒歩や自転車の次に良いのは、バスである。
高梁の街はこじんまりとしている中に、古い建物や堀がたまにあって、昔の名残がいい感じで残っている。変に新しい建物が目立っていないのが、良い感じに思われる。
軽く街並みを味わったので、備中松山城に行こうとしたら・・・。
小雪がちらついている。
道理で寒いわけだ。
さて、どうしたものか。
迷っている内に、雪がやんだ。
よし、行こう。
しばらく自転車を走らせると、案内表示が出ている。
「備中松山城まで約5キロ」
う〜ん、どうしますかね〜?
自転車の速度は平均して一時簡に10〜15キロくらいだろうから、30分あれば着くかな?
ま、何とかなるでしょ。
たまに見える案内表示に従って、松山城に向かう。
なんか、山に向かっているような気がするなー。
途中に、山田方谷先生家塾跡との石碑が。
その傍らにバス停もある。名前は「登山口」。
登山口?
どこの山だよ、それ。
自転車で行く道は、だんだん傾斜がきつくなる。
三島中洲公園あたりで、とうとう自転車を押して登ることに。
「観光地なのに、なんでこんなに不便なところにあるんだよ!?」
などと理不尽な不平を感じたところで手遅れだ。
二月初めという、観光の閑散期でもあるのだから、なおのこと不平を言っても仕方ない。
ここまで来てしまっては、もうこのまま登ってしまおう。
息を切らしながら登る私をたまに、自動車が抜いて登っていく。
備中松山城最寄りの駐車場までたどり着く。
ここからは、自動車の来訪客も歩いて登らなければならない。
足が重い。傾斜のためか、疲労のためか。
やっと着いたと思ったら、そこは大手門で、天守閣まではさらに階段を登らなければならない。
「こんな城、使えねーよ」
などと悪態をつきたくなる。
天守閣の前の広場状のところで、一休み。
高梁市街を一望できる高台になっていて、気持ちよい。苦労したので格別の味わいだ(笑)。
天守閣自体は、こじんまりとしているけれど、上品で良い味わいだ。
きれいなのは、大修築を終えたばかりであったためでもあったようだ。修築終了記念で、入場料が無料だ。ラッキー!
浮いた分にプラスして、絵はがき購入。
備中松山城は、臥牛山の地形を利用した天然の山城である。
鎌倉時代中期に造成がはじまった城域を大松山と呼び、鎌倉時代が終わる頃から小松山に城域が広がる。近世の小松山に造られたのが現存する松山城である。今いるのは、小松山の方になる。
この際だから、大松山まで行こう。
しかし、山道には雪が残り、足場が悪い。
そうこうしていると、疲労のために足が笑い出した。ガクガク震え出すのだ。
自力で帰れる内に、帰ろう。
吊り橋まで行って、帰って来る。
自転車を置いてある駐車場まで、降りる。
途中に、木の立て札を見つける。
「本日の登城大儀であった 城主」
本当に、大儀だったよ。
自転車で一気に降りる。
気持ちいいですな〜。
高梁からの帰りがけに、吉備津神社に寄ろうと思って、JR吉備線に乗り換えるが、力尽きて居眠りしてしまった。
そのまま断念し、関東への帰途につく。
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