今夜より北海道にてのオフ会に旅立つ。
 職場を定時に退勤し、集合場所である千葉県下の某所に向かう。
 自動車で函館に向かうというのだから、非常に不安である。
 しかし、案外大丈夫だった。
 道については、カーナビがある。
 運転については、なれている人が自分は除いて、二人いる。
 途中眠くなったらという懸念も、意外と様々な話で盛り上がって何とか凌げた。
 函館が急に近くなった。

どうすれば…?

2001年7月16日
 英語で簡単な自己紹介をしろって言われても…。

 千葉の家から戻って、メールをチェックしていたら、東京での会合の案内がメールで来ていた。
 例の、沖縄旅行に行ったり、人をお招きして話を聴いたり、飲んだりする会である。
 今度の土曜日は、ある数学者をお招きして話を聴くという。
 この人は、有名な数学者で、言語を幾つも話せる(もちろん日本語も)。大道芸も得意だ。
 会の幹事より来たメールによると…。
 数学を使ったちょっとしたゲームをしてもらうので、遅刻はしないように。また、出席者は英語で簡単な自己紹介を考えてきてください。
 遅刻をしないのは当たり前だが、英語で自己紹介となると考えてしまう。久しく英語の勉強などしていない。
 省エネモードの入っている頭には、英語はきつい。
 少し検討してみましょう。

夏ボケ?夏バテ?

2001年7月15日
 この頃、気力が湧かず、体にも力が入らない。
 おかげで、肩が凝らなくて良いが…。

 オフ会のことなどもあり、友人のところに行く。
 ある友人はこのところ、良く眠れないらしい。
 どんなに夜遅くゲームをしていても、朝5時半だか6時には目が覚めてしまうのだという。
 また、忘れっぽくなっていて、ズボンのポケットに携帯電話を入れたまま、自宅や職場で携帯を探していた事もあったという。
 「自分がお年寄りになったような気がする」と話していたのには、思わず笑ってしまったが、自分の状況にも共通する現象なので、笑ってばかりもいられない。
 自分では暑さのあまり、心身ともに省エネモードになっていたのだと思っていたが、本当はちょっとばかり重症なのかもしれない。

ぶらりと…

2001年7月14日
 前の晩からの宿直を朝に終え、千葉の友人に会いに行く。
 と言っても、何をするというわけではない。趣味は共通するので、話題に事欠かない。
 今回差し当たっては、夏に皆で旅行をするのだがどこにするかなどを話そうという名目(?)はある。
 目的地などは決めてなかったので、そのまま電車に乗って話しながら決めようというつもりだったが、「このまま下ってみますか」と、本当にそのまま北関東へ下って行ってしまった。
 昼食を群馬県下の街で済ませ、また電車に乗り込む。
 その内、とうとうその路線の終点である、I駅まで行ってしまう。
 無計画さもここまで来ると立派だと、我ながら感心する。友人も同様と思う。
 とりあえず目先が変わって良かったかもしれない。
 差し当たっての話題も、何とかまとまったし…。

クリーン作戦

2001年7月8日
 ってほどのものかはわかりませんが…。

 今朝、市内を流れる河川のクリーン作戦との事で動員され、7時半集合で行く。
 千葉の実家から直行なので、きつかった。
 ごみを拾い集めるだけなのだが、日差しの照りつける中行なうと、体力を消耗する。
 この頃の私はスタミナが不足気味なので、30分経つと、フラフラになってくる。
 それにしても、ごみを捨てるにしても、もう少し考えてほしいものだ。
 そういう意味では、奉仕活動を教育に取り入れるのは賛成だ。自分がしてみて(されて?)イヤなことを自覚させられると、違ってくるものである。
 逆に、自分がしてみて(されて)良い事も同様である。
 真面目くさった話を…。

 東京の知人のところに行く。
 沖縄旅行に行った時のメンバー(今日の出席メンバーとは異なるが、ベースになる面々はだいたい同じ)が、時々、人を招待して、話を聴いて、その後、酒を飲んだり、食べたりするのだ。

 今日は「米軍人・軍属による事件被害者の会」の代表の人に話を聴く。沖縄駐留の米軍人・軍属とその家族の横暴ぶりは、マスコミなどで報じる以上に深刻なようだ。
 殺人・強盗・強姦・放火などの凶悪犯罪によって1年に1人が殺害され、月に二件の犯罪で逮捕者が出る。
 交通事故は年間1000件を越える。1日に3件はどこかで交通事故が起こる。
 これらの犯罪・事故によって、米軍人・軍属並びにその家族が、刑事的に罰せられる事はあんまりない。日米地位協定によって、加害者の身柄引渡しに待ったがかかるのだ。
 刑事罰の判決が出されても、執行猶予付だったり、刑自体が軽い。そのうちに加害者は本国に異動になる。それも左遷ではなく、大抵、栄転である。
 民事訴訟で、損害賠償を求めても、勝ち取るまでが大変である。
 防衛施設局などの役所は「訴訟は起こすな。弁護士や議員は連れてくるな」と言う。
 周囲やマスコミの中には、「金が欲しいから訴えるのだろう」という反応もあるらしい。
 訴訟を起こせば、ただですら名前が表沙汰になる。親しい人が亡くなったり怪我をしたばかりの人には、行動は一層エネルギーを要する。
 損害賠償を勝ち取れても、加害者本人は1銭も支払わない。日本政府と米政府が支払う。米政府の支払いは2割にも満たず、ほとんどを日本政府が支払う。
 一連の行動をしていて、米政府・米軍並びに個人・日本政府の誠意のなさを強く感じるようだ。
 自分でひどい目に遭わなければわからないということなのだろう。米軍人個人が、日本人に同じような凶悪犯罪の被害に遭ったらどうだろう。
 沖縄の人々のように泣き寝入りをしないで済むだろうけれど…。
 今、沖縄の人たちは、無力感に陥っているそうだ。
 日常的にひどい目に遭っているのに、本土の人間はほとんど助けてくれない。
 酷い事が日常化しているから、いちいち驚いていては心身が持たない。だから、心が閉じてくる。
 革新系の運動は行き詰まっていて、次の有効な手を打てない。6年前の暴行事件をきっかけに起こった運動の対策として、土地の収用を知事が拒否しても、首相が代わりに執行できるなどできるようになったので、行政的に有効な手立てが無くなってきているのだ。
 有効な手立てを講じられないでいるうちに、保守系が政治的に優勢になる。国の補助金や公共事業のうまみに乗っかるには保守系が有利なのだ。
 沖縄経済は日本の地域経済の中では、貧しい方である。(あるいは意図的に?)自立した産業・経済が育っていないので、基地・公共事業・各種補助金が頼りだ。
 自衛官を志望する若者は多い。公務員だから、貧しい沖縄にしては待遇が良いのだ。
 基地で働くと、国家公務員に準拠する待遇で雇用される。
 こうなると、変に反抗的なことをすれば、食べて行けなくなる。泣き寝入りせざるを得ない。
 本土でも沖縄と同じような目に遭わないと、本当に自分たちのことを考えてくれないと思っている。
 米軍人などによる事件・事故は全国的に増加傾向にある。沖縄に次いで米軍関連の施設が多いのは横浜の防衛施設局管内であり、この傾向は顕著である。

 こうしたシリアスな話を聴いて、何も言えなくなった。
 何か質問したり、自分の考えを言うのも愚かなような気がして、飲み会のための買出し行く人たちに、さっさと付いて出かけた。
 飲み会自体は和やかで楽しいものだった。

麦茶

2001年7月4日
 昨日は暑いあまり、缶飲料を5本消費。
 これではいけないと思い、今日は水筒で麦茶持参。
 重かった。
 あと、今日も暑くてがぶ飲みしていたら、昼過ぎには水筒が空になった。
 

異常なし!

2001年6月27日
 念のため、CTを撮ってもらったが、異常はなかった。
 今日はとても暑い。
 歩いている内に体力を消耗し、午後に職場に出ても良いかとも思っていたが、そんな気持ちも失せて、久し振りに1日年休取得。
 先月の旅行などを除くと、1時間とか2時間の時間単位の年休をたまに取る以外、めったにない事である。
 たっぷり休む事が出来た。

 パソコンに新設したコンボドライブで、CDを焼く事に成功。
 絶版になったCDだったので、嬉しさもひとしおだ。

脳内戦線異常なし?

2001年6月26日
 沖縄旅行の時、転んで頭を打った。
 それから1ヶ月以上経過するが、異常なことは今のところない。
 しかし、旅行のメンバーと、父親がえらく心配していて、検査に行かないと格好がつかなくなってきた。
 というわけで、明日は医院に行って、CTなどで検査してもらうつもり。

軍拡競争

2001年6月17日
 秋葉原に行き、ハードディスクとメモリーを購入。
 組み立ては自分ではできず、パーツについても無知なので、友人にアドバイスと組み立てをお願いする。
 予算があれば、もっともっと増強したいが、そうはいかない。
 物事には限度がある。
 軍拡競争とは幻想である。

 『島津奔る』読了。

刹那的に…

2001年6月14日
 早く帰宅したくなった。
 少しばかり気持ちが悪いのと、腹が痛いので、1時間年休を取って帰る。
 帰りがけに、カード入れとお香を購入。
 貰った名刺が増えてきた。
 お香は二年前からたいている。

珍しく…

2001年6月13日
 寂しい夢を見た。
 初めはそうでもなかったけど、夢特有の滅茶苦茶な展開の結果、そうなってしまった。
 二年前に亡くなった祖父の夢である。
 寝たきりだった祖父がちゃんと歩いているのだ。
 そのことに触れると何か壊してしまいそうだったので何も言えず、ひとりで泣いていた。多少嬉しさも入っていたかもしれない。
 あまりにも大きく感情が動いたためか、そこで目が覚めてしまった。
 少しばかりの寂しさと悲しさが、残った。

咽喉が…

2001年6月12日
 なぜか、声が出にくい。
 風邪をひいた訳ではないのだろうが、声が日に日に出にくくなるのだ。
 咽喉が冷えただけなのかもしれない。
 これでも「客商売」(窓口担当)なので、声が出なくなると仕事に差し支える。
 でも、口数を少なくせざるをえないから、無駄なエネルギーを少なくできるかもしれない。
 いっそのこと、主な台詞だけでも、大き目の紙か何かに書いておいて、お客に示そうか。
 「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」などなど…。

なぜか5月病?

2001年5月30日
 昨夜遅く、唐突に出勤したくないと思ってしまった。
 非常に辛い気分だった。
 朝も気は進まなかったが、出勤の用意をする。
 パンを食べていたら、気持ち悪くなってしまった。
 ノロノロとしてしまい、家を出発したのは8時15分頃だった。
 気持ち悪いのは職場でもしばらく続いた。
 それでも何とか仕事が出来たのは、隣にいた新採の女性のおかげだったかもしれない。
 ひたすら明るい人なので、こちらもつられてしまうのだ。
 普段通りに仕事をしているうちに、気分が晴れてきた。
 ほぼいつも通り。
 5月病ってこんなものなのだろうか?

平和なひととき

2001年5月29日
 今、ウチの職場は比較的平穏である。
 今日はあまりストレスを感じないで過ごす事が出来た。

 昼休み、食事をしに、先輩と同期のヤツとの3人でラーメン屋に行く。
 沖縄でソーキそばを食べて以来、久し振りに食べる麺類だ。
 関東で暮らして比較的濃い味付けに慣れているためか、ソーキそばは薄味に感じられたものだ。久し振り(事実だが)にラーメンを食べているなあという実感が湧いてくる。
 それはそれとして、旭川の醤油ラーメンを、また食べたいなあ。
 食べられないとなると、ますます欲求は高まるのだが、遠くにあるものは仕方ない。

 夜、ボーッとしていると従弟から電話が入る。
 思わず、「○○部○○課…」と名乗ってしまう。
 プライベートで電話をあんまりしないので、職場のクセが抜けきれていないのだ。
 これで2回目だ。
 1回目は父親からの電話でやってしまった。
 そんな自分に思わず苦笑する。
 「二度あることは三度ある」というけれど…。
 何だか、変に煮詰まっていた。
 昨日の朝5時起床して、実家を出発。
 そのまま、某地方都市の職場に。
 業務開始から、なぜか客からの電話が妙に腹立たしく、イライラする。
 夕方は宿直。
 幸い、大した事もなく、時は過ぎる。
 翌朝(つまり今朝)、通常業務に入る。
 仕事から逃げる同じ係の中年男が腹立たしいし、変に腹の立つ客もいたが、大した事もなく、クリア。
 夕方、明日の夕方に端末を新しいものに切り替えるために、バックアップをとるので少し居残り(残業ともいう)。
 もう少しで、周囲に当たりそうなところで、帰宅する。
 セーフ。


 って、私の話題ではないです。私は独身なので。念のため。

 職場にて昼休み、後輩が夫婦喧嘩の話をしている。
 後輩といっても、ウチの職場に1年遅く来ただけで、年齢も1年若いだけだ。
 ネット上で知り合って、そのまま進展したという。
 女性の方は中京圏から関東に移って、現在では二人揃って暮らしている。もちろん入籍も済んでいる。
 喧嘩の直接のきっかけは、ご飯粒を残す、残さないといった些細な事だったらしい。
 昨秋結婚した先輩(といっても年下だが)も、洗濯をしてあげたら色落ちして、他の洗濯物も染まったことがきっかけで喧嘩した事があると話していた。
 洗濯してあげたつもりだったので、そのことに触れて欲しかったのに、怒られたという。
 親子兄弟などと違って、他人同士で暮らすのだから、いっそう葛藤もあるだろう。
 二人暮しは、それはそれで大変なのだと感じた。
 私は当分そんなこともないので、傍観者でいられるのだが…。

臨機応変、または…

2001年5月12日
 行き当たりばったり、とも言いますよね。

 台風接近のため、西表島二泊の予定を一泊に切り上げるという判断を幹事がする。
 これは正解で、居続けていたら、西表から石垣への高速船は欠航になり、身動きが取れなくなるところだった。

 石垣島市街で、食事と買物。
 食事は、三線を弾きながら島唄を歌って客をもてなすオバアのいる店だった。
 踊りも歌も苦手なので傍観してだけだが、楽しげな気分になる。
 突然の日程変更も損なことばかりではない。
 昼食後、レンタカーを取ってくるまでの間、各人がまちまちな行動をする(買い物・お茶・蛸の水族館(?)見物などなど)。
 それを見ている私は、非常に不安になる。とりあえず、一人だけでも、一定の場所を動かない人間は必要と考え、動かないことにする。
 午後、石垣島を見て回る。
 灯台近くの荒々しい光景は、まるでスコットランドかどこかにいるような気分になる。
 草地はところどころ岩が剥き出しで、高い樹木が生えていない。
 メンデルスゾーンの『スコットランド』とか『フィンガルの洞窟』を聴きたくなった。
 天気が悪くても海の透明度は素晴らしい。
 地平線まで広がる透明な海を見ていると、月並みでも、「来て本当に良かった」と思える。

 那覇空港に到着。
 急な予定変更であったため、宿は取っていない。
 幹事役の人が電話を入れて、何軒目だかにようやく部屋が取れる。
 何しろ総勢22名だ。受け入れてくれるところはなかなかないだろう。
 しかも土曜日なのだから、宿泊できさえすればラッキーである。
 よかった。

忘れ物(その2)

2001年5月11日
 2日目、高速船で西表島に移動。
 臨機応変(行き当たりばったりともいうかもしれない)で動くので、集合時間が変更になることは良くある。
 人数も多いから、伝達しきれないし…。

 昼食を西表島の民宿近くの食堂でとる。
 20人以上の人間が、ラーメンを頼むものだから、大変だ。
 あるメンバーが後で店先を見たら「今日は麺類終わりました」とかいう張り紙か何かしてあったという話である。

 川上り(浦内川)。
 船着場の女性に昼食の話をしたら、「多分、それで終わりだわ。今夜手伝いに行く予定だったけど、それもなくなったわ」とのこと。
 石垣島もそうだったが、川(特に海水と真水が混じる辺り)でマングローブ林を多く見かける。見ていて、生え方がユニークでとても面白い。
 上流部で船を降りて、往復2時間ほどの山歩き。
 『ジュラシック・パーク』を思い出す(月並みだが)。
 川上りから帰って、川にかかる橋から河口を双眼鏡で見ていた人が、「あれはカニですよ」と言う。
 メンバーのほとんどは双眼鏡を持っているので、見えるらしいのだが、私は忘れてきてしまったので、見る事ができない。
 ちょっと悔しい。
 河口の方の岸辺に、カニの群れが多くいたらしい。
 双眼鏡がないので、鳥も良く見られず、これまた悔しい思いをする。

 夕食を摂る。
 海藻(アーサーとかいったか?)の汁や赤米のご飯、煮魚や刺身などが出てきた。
 刺身の中に、白身で、皮が緑の網目模様のものがあった。
 味はタイ等に似た味だが、歯ごたえが妙にある。
 全般に美味しい食事だ。
 前日の疲れが残っているので、夕食後早々に自分の部屋に引き上げる。
 宿屋の主人の弾く三線の音と島唄とが聞こえてきて、そのうち眠りに入った。

忘れ物(その1)

2001年5月10日
※この日記は14日に記しています(以下、13日までも同様に、後日に記しています)。

 以下、断片的に…。

 3時起き。
 バスに乗ろうとしてふと、携帯電話を忘れたことに気がつく。少なからずショックだ。 
 4時半発のバス乗車。羽田着は6時20分過ぎ。眠い。

 総勢21名+途中参加者1名。
 年齢構成・職業・住まいもまちまちで、説明に困る集団が動いて回る。

 1日目、石垣島巡り(半分くらい?)。
 天気が不安定で海に潜るわけにはいかないけれど、海の透明感が気持ち良い。
 それでも幹事役の人は水がよほど好きなのか、海に入った。
 しまいには他の人に水をかけるので、大変だった。
 かけられた人の中には、デジカメを持っている人もいるのに(もちろん大した事はなく、冗談の範囲内)。
 水遊び(?)のあと、記念撮影をしようとしたら、白くて可愛い犬がいた。
 メンバーの女性が、双眼鏡をその犬の首にかけたら、犬は驚いて、双眼鏡をしたまま逃げてしまった。
 ちなみに、その女性はさっき水をかけられた人で、双眼鏡は水をかけた人である。
 別にさっきの仕返しではなく、冗談の範囲内である。
 犬は案外近くにいて、双眼鏡を外そうとしていたらしい。

 夜は郷土料理の店に全員で繰り出して、24時近くまで飲む。オリオンビールやら、泡盛やら…。
 個人的には、沖縄の豆腐が特に気に入りました。
 歯ごたえがあって美味しいんですな、これが。

< 4 5 6 7 8 9 10 11 12

 

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索